昭和41年3月2日 夜の御理解
皆さん、おかげを頂きまして有り難うございます。 今日は、思いがけなくこちらにお引き寄せ頂きまして、大変お世話に「 」なりました。 本当にこの信心を頂いておるという事が、本当に有り難い事だと、私共のような無学な、何も出来ない者が、もし信心を頂いてなかったら、こういう有り難い幸せにはとても会えない。たとえば富永先生あたりとお近づきになる事すら出来なかっただろうと、こう思うんですけれども、信心のおかげで、しかも本当に一家を上げてこうやって、私のこの、教務所に参りましても、「 」の方からこちらにおかげを頂かせてもろうて、大奉仕を受けた訳でございますが。
ただ今の御礼をさせて頂いておりましたらあの、そのお供えを一台、そのまま頂くんですね。これはあの大きなナシ、これはあのミカンですね。これは今晩のこの雰囲気だという事なんでしょうね。ナシてのがまぁ、この私の事じゃないかと思うんですね。これはまあ言うならば、私を空しゅうしておるといったようなものではないかとこう思うんですね。
私はあの、どこでも良い主義だといったような事を申しますのは、この自分を空しゅうしなければいけません。我情を離れるとか、我欲を取るとか、そこにわが身は神徳の中に生かされてあるという喜びを日々あの、謳歌して行く事が出来ると。私はそれをその日々あの、もう本当に言うなら刻々、この神様の働きを身近に感じんわけにはまいりません。もうこちらがですね、それはね、もう力もないし出来ませんけれども、ただ神様に喜んで頂くような、お役に立ちたいお役に立ちたいというその念願に、いつも、まあ言うなら燃えておるからじゃないだろうかと、こう思うです。
え~、今朝もあの、こちらへ立とうとしております時に、福岡の杉山さんがお礼に出て参りました。夕べ遅う月次祭で帰って、たばかりなんです。はぁもう夕べは、寝らんならこちらへ来たって表で言いよりますもん。何だろうかと思うたところが、もう今日は親先生、広大なおかげを頂いてから、ちょうど4時5分でございました。あの、自分達が休んでおる人がえらいそのバリバリ言うから、もう表のところがですね、あの水道のあの、モーターが焼けましてね。
「もうど」、こう、ここが燃えた、止めてしまってですね、上はこの、ビニールですね、ビニールの瓦、ビニール瓦が3枚とも溶けて流れてしもうとったっち。 もう本当に先生、あれに一分遅かったら、もう大事が出けとります。 それこそあの、大学通りですかね。
今日、高橋さんに聞きましたんですけれど、大きなお家なんです。 それはもう、それこそ昔にですから、もうそのいわゆる燃えも致しましょうが、もう近所はもう一周しとるとこなんですね。 もう本当にもう一分遅かったら大変な事になっておりましたって言うてから、あのぉ、お礼お届けに出て参っておりましたが。
例えばこの~、この例えば出る間際からですね、こうやって、ならまた今日、小倉をた立たせてもらう訳ですけども、立たせて頂く間際にこうやって御用をさせて頂くということが、有り難いと私は思うんですね。 あの、この、ナシをまぁ私にするなら、この沢山のこのみかんが、これは皆さんの事だと思うんですね。 椛目では、みかんをお互い、椛目の信心の、まぁシンボルだと申しましておりますね。 これを二つに切ってごらんなさい、菊の花のような形になるでしょう。 自分の心の中に菊の花のような喜びをいつも頂いておけという意味の事だと思うのですけれどね。
そのぉ、私は思わせて頂くのに、とにかくその人、人、立場、立場に応じて、本当にあの、いわゆる社会の為に人の為に、人の喜んで頂ける為に、まぁ大きくそれを言うなら、神様に喜んで頂く為に、お役に立ちたいという一念に燃えておる事だと思うですね、私。そこにあのぉ、生き甲斐の感じれれるような人こそ、本当の幸せだと私は思うです、ね。ですから、例えばなら今日、富永さんあたりが、私がこちらへ来たというのでも、その私の為に一生懸命にそのご用の気持ちを燃やして下さったんですね。
それをまた私が受けただけで、これをまたその、お役に、次のお役に立たせてもらうところの、まぁこれを原動力ともさせて頂かなかった私がおかげを落とすだろうと思います、ね。 私は私なりに、もうその、お役に立ちたいと。 皆さんは皆さんで、お役に立ちたいという、そのおかげを頂かせて頂くということですね。 昨夜のお月次祭にも申しましたように、あの、渡辺先生のところの息子さんが、あの、お母さんに、「お母さんあの、我情、我情我欲を離れるという事はあの、相手の気持ちの、相手の立場になる事じゃないだろうか?」と申しました。 本当にお宅に教えられるような思いでございましたが。
私もあらゆる角度からこの事に、この御教えについては説いておりますけれども、こういう簡単な言葉で、この我情を取っておる、いわゆる私を空しゅうするという事なんですね、我情をとるという事は。 このナシのようなもの、私を空しゅうするという事は、確かのそうだと思うのですね。 もう相手の気持ちになるという事、時にはもうすでに自分の気持ちはない時なんですよ。 そこに確かにわが身は神徳の中に生かされてあるという、この喜びっていうか、もうそれが現実におかげになって頂けて来ると、私は思いますですね。
今日はあの、あちらへ教務所へ参りましてから、まぁ色々、面接や、それからちょっとした試験のような事がございましたのですけれども。 また、署長の話やらございましたが、現在の教団の動向についてというお話がございました。 動き、方向という訳なんですね。 だから、その方向づける為に今教団が一生懸命になってるんです、ね。 末永さんでも、高橋さんでもそれを聞いておりましたから、私はあとから3人で話した事でしたけれど。 もう椛目の場合なんかもう教団のその動向を目指しておる、ここを焦点にというところの、に椛目の場合はおかげを頂いておるように思うなと言うて話した事でございますがね。
確かにあの、椛目の場合病気治しや災難避けの神じゃない、いやそこから信心は始められるのだけれども、ね、結局は一つ二つ三つ、大事なこととしてから、その上げられましたんですけれど。 一つはこの、本気で難儀と取り組むという事でしたね。 それからあの、二つが何でしたか。 手元のところをでしたね。 いわゆるその、手元のところを見極めるという事なんですね。 それから3つが何でした? あぁ、肯定しない、それでいて、否定しないという事なんですね。 例えばあの、私がお届けさせてもらいよるから貴方が助かっとるとばいというのではなくてですたいね。
本当にあの、私的にはいつも空しいのです。 けれども金光大神の取次ぎによって、天地の親神様のおかげで助かっておるんだと。 例えば、あれは椛目的に言うならどういう事でしょうかね。 ん~私がよく、私はそこは極端ですよね。 まぁ言うならば、私の取次ぎなんかで助かってるんだという時にはね、あれは大坪総一郎のでっていうんじゃないですよ。 あれは、いわゆる親先生という一つの神格です。 だからこれは、あの、私の表現がそうなんですけど、理屈は同じだと思うですね、ね。
私があんた事お願いしよるけんアンタおかげ頂きよるとばい、とこう言うのは大坪総一郎じゃないです。 そしてなら、一度大坪総一郎に帰った時には、私のような、私のような無力な者が、何が出けるかと言っておるでしょうが、ね。 だから私の頂いておるところの金光大神の働きというのがです、もうおかげでと。 そこにあの肯定もしなければ否定もしない、ていうのはその事だと私は思いながら聞いたんですよね。 確かにその事だと、してみると椛目の生き方はもう本当にもう、完璧と言って良いくらいに、今日の3つの問題だったらあの、教団のその動向にですね、あの、方向を向けての進み方をしておるんだと、まぁ言うならば今度の学院行きはただ、そのお祭りの仕方とかね、お祝詞の書き方なんかを、まぁ覚えて来なければならんならば、覚えて来なんのであり。
けれども、そういう覚えたからと言うて、別に椛目のお祭りをどうって事でもないんですし。 けれども、やはりこれは、一つのそうした、教団には教団の、あの何とかでしたね、この前私が頂いた一つの決まりていうものがあるんですね。 あの、十三日会の時頂いたでしょう。 ですから、そういう一つの、まぁ、教団の掟といったようなものに添わなければいけない訳なんですから、まぁその為に今度連声させて頂きたいと。 それで私、勉強に行くんですけれども、これ恐らく私はまたね、あそこでお役に立てるなという事を、今日はいよいよ確信いたしましたです。
これはもう、恐らく私今、こちらへ参りましてから、これ何回も何回もあの、皆さん頂いておられますから、末永さんが頂いておられたんです。 で、私聞かせて頂きながら、何べん頂いても有り難いなと私思うんです、私自身が。 ん~、ですからこれがね、今の教団の中にお役に立たんハズは絶対ないです。 なるほど椛目ではですね、これがもう、それこそ限りなしにこのテープがお供えになっとるんです。 だから一つも消さないんです。 これはだから、保管されて行くんです、沢山の朝晩のご理解が。 しかも朝に晩にです、今教団でその、声を大にして言うておる、その道付けに対してです、もうあらゆる角度から説いてあるという事ですね。
ね、そういう意味で椛目にお互い御縁を頂いておるのでございますから、せっかく、ね、ただ、なら貴方がたの場合のように、ただ息子やらのその試験の事だけの為の金光様ではなくてね、ん~。 いやそこから入っても良いんだと、けれどもやはりそのぉ、その例えば問題なら問題というものに本気で取り組む事だと、ね。 そして自分の手元のところを大事にしていく事だと。 というようなですね、その、ところにおかげを蒙らせてもらい、先程もこれに申しておりますように、降っても有り難いならやはり照っても有り難いんだという、その境地を開かせてもろうて、そしてしかも、その気持ちを持ってお役に立ちたいという、それぞれの立場です。
ね、それぞれの信心の程度に応じてお役に立ちたい。 ただお役に立ちたいという願いを持ち続けることだと、ね。 そこにはです、その神様が、例えば今日一日の中に私の上に働いて下さっておる、そのおかげといったようなものが、これおかげとして頂けれるのだと、いう事になる訳なんですよね。 どうぞ一つ、おかげを頂いて、一つ、まぁ、皆さんお道の教師になられるような気持ちでですね、まぁ教団で言うておるその、教団のその、動向についてという事についてお話を頂いたんですけれども、その方向に向かって信心のけいこをしていかなければならないという事なんですね、どうぞ・・・。